No.63 今こそ「基礎研究」の大切さを再認識しよう



 2008年のノーベル物理学賞にシカゴ大学名誉教授・南部陽一郎氏、 京都産業大学教授・益川敏英氏、高エネルギー加速器研究機構名誉教授・小林誠の3人が選ばれた。 受賞理由は、南部氏が「素粒子物理学と核物理学における自発的対称性の破れの発見」、 益川氏と小林氏が「クォークの世代数を予言する対称性の破れの起源の発見」だという。
 またその発表の翌日、ノーベル化学賞にボストン大学名誉教授・下村脩氏ほか2名が 選ばれたと報じられた。下村氏の受賞理由は「緑色蛍光たんぱく質(GFP)の発見と開発」。

 一度に4人もの日本人3人の日本人+日系アメリカ人1人(※注)が選ばれたことは素晴らしいことで、報道も一斉に 祝賀ムードである。


※注:シカゴ大の南部名誉教授はアメリカ国籍を取得したアメリカ人であり、 当初上記で"4人もの日本人"と表現していたことは誤りでした。お詫びして訂正します。 新聞を丹念に読んでいないと、こういうミスを犯します。いや、丹念に読んでいても、 一連のノーベル賞関連報道では、日本人と表現しているマスコミがほとんどでした。 10月23日付朝日新聞に作家の森巣博氏による『米国籍なのに「日本人」とは』 との投稿があり、私自身も含めてこの点に不注意だったことを反省、 再考する必要があると思います。(2008年10月23日追記)

 子供たちに理科の楽しさ、素晴らしさを伝える良い機会である。 楽しんで勉強を続けた結果の偉業達成という点は、強調されてよい。 だが、単に「発想力が大事」とか、「暗記偏重の偏差値教育ではなく、 考える力を身につけることが必要」といった反応が多々見られるに至っては、 ちょっと短絡的過ぎるのではないか?と思う。

 もちろん、実験によって新しい事実を発見するためには、 人とは違った発想力も必要となるに違いない。しかし、その発想力がどのように培われるのかといえば、 それ以前にたとえば単調な計算問題とか、暗記をたくさんこなしたからこそであろう。 どんな学問でも、基本をおろそかにしては実力がつくはずがない。 言い古された表現ではあるが、学問も、スポーツも、「基本が大事」なのである。

 今回の受賞対象は、いずれもいわゆる「基礎研究」であって、 即座にビジネスに役立つようなものとは違う。 近年は、大学も産業界の要請に応えて、ビジネスに直結する実学を重視する傾向にあるが、 私は以前からこの風潮をたいへん憂えていた一人である。 学問の価値は、直ちにお金に結びつくか否かで判断されるべきものではない。

 よく社会人に向けられる質問として、「もし今の職業に就いていなかったら、 どんな仕事をしたかったですか?」というものがある。 私は、現在の職業を素直に「天職」と感じている人間だが、 それでももし、今から中学生くらいに戻れるとしたら、私は数学者を目指したかった。(*1

 以前(もう10年以上前の話だが)、知人にそんな話をしたところ、 「そんな研究者なんて、まったく社会の役にも立たないし、むしろ存在自体が害悪だ」 みたいな言われ方をしたことがある。

 その発言者はおそらく、経済的な付加価値を直接生まない職業など、 職業と呼ぶに値しないと言いたかったのだろう。 近年はそんな風潮が蔓延しているのだが、 基礎的な研究をおろそかにしては、産業界の長期的な発展など望めないはずである。 今すぐビジネスに役立つか否かで学問の価値を計るのは、 いかにも近視眼的である。(*2

 折しも、アメリカ型の金融資本主義が一つの限界を露呈し、今、 全世界的に、構造転換を迫られているのではないだろうか。 カネにカネを生ませようという錬金術に狂奔すれば、その泡はいつか破裂するのである。(*3

 一方で、金融資本主義に対する批判として、 「汗水垂らして働くことの大切さ」をことさら強調する論者がいるが、 そのような牧歌的な意見にも、私は賛同しない。 カネを運用する仕事に従事している人たちだって、やはり汗水垂らして働いているのである。 みな必死という点では、どんな職業も変わるところがない。 鍬を持って耕している人だけが、価値ある労働をしているわけではないのである。

 物づくり、付加価値づくりのベースには基礎研究があり (たとえば農作物の品種改良ができるのも、生物学の基礎研究があるからであろう)、 その根本には、学ぶということへの真摯な態度が不可欠なのだ。

2008年10月15日


*1:私自身、小さい頃から数学が好きだったというわけではない。 むしろ中学の頃など、数学の先生が嫌いで、勉強を拒絶していたくらいである。 今の職業に就いてから、急に数学の楽しさに目覚めたのである。

*2:批判を承知で言えば、 私は「金儲け」に直結するような学問は学問とは呼べないと思っているところがあり、 純粋に知的探求心に従って勉強だけしていられたら、それ以上の幸せはないと考えている人間である。 そう言うと、「そんなきれいごとだけでは生きてゆけない。 生活費はどうするのだ」といった反応がすぐ返ってくるわけだが、 私の中で現在の職業というのは、そのあたりのバランスをとった選択だったといえる。 イヤなことは一切しないというわがままを貫き通せるのも、曲がりなりにも一国一城の主だから であり、理屈を武器にすることがアイデンティティとして認められる今の立場は、痛快ですらある。
 こんな志向を持つ私が、金融資本主義の象徴のような「金融工学」に興味を持ち、 一時期必死に勉強し、当サイトでも金融工学を用いた論考を多く発表してきたのは、 単に「数学」として興味を抱いたからというのが第一の理由である。 その学問的興味が、仕事に結びつくかどうかは、実のところどうでもいいと思っている。

*3:近年、この国を席巻している新自由主義の考え方によれば、 稼ぐ能力のある者が大いに稼げば、その富がしたたり落ちて、 下々まで潤う(トリクルダウン理論)。だから強い者の足を引っ張るなという。 この考え方は、一見論理的に見えるけれども、弱い者のやり甲斐とか 自己肯定感を踏みにじっている点において、極めて非人間的な発想である。 つまり、稼げない人間は、せめて稼ぐ人間の邪魔をしないで、 ただ口を開けておこぼれを待っていろということなのである。 存在意義を多少踏みにじられたとしても、金銭的に潤いさえすれば文句はないだろう、 というのは、カネでしか幸せを計ることのできない哀れな人間の発想だと、私は思う。