No.39 利回りを高くしたい人、低くしたい人

-ある村の物語-



 ある村に、農家を営む田吾作(たごさく)という男がいた。彼の畑には、毎年秋になるとたくさんの実をつける大きな栗の木があった。

 ある年、田吾作は、急にお金が必要になって、自慢の栗の木を手放す決意をした。そこで、同じ村に住む権兵衛(ごんべえ)に 栗の木を買わないかと話を持ちかけた。

 田吾作が村の長老に聞いたところによれば、以前、同じような栗の木が1本30万円で取引されたという話で、 最近は栗も飽きられてだいぶ安くなっているので、自分の木は25万円くらいではないかと値踏みして、 権兵衛にその値段で買ってもらうように交渉した。

 納得のゆかない権兵衛は、田吾作の木が最近あまり手入れされていないことを指摘して、 18万円で譲ってほしいと言った。

 話し合いがなかなかまとまらなかったので、二人は、村の智者のところへ相談に行った。

 智者は、田吾作に尋ねた。「田吾作殿、その栗の木はどれほどの実をつけるのか。」

 田吾作は答えた。「はい、毎年1,000個ほどの実を実らせます。」

 智者はさらに続けて、 「その木から取れるのが、ごく普通の実であるとすれば、今は1個あたり10円で売れるから、 10円×1,000個=10,000円の売上になる。以前この村で取引のあった栗の木は、栗の実の売上25年分の値段がついたというが、 最近村では、柿やら蜜柑やらが人気で、これからも栗の人気がそれほど高まることはないだろうから、 当時と同じというわけにはいかない。 それに田吾作殿の木は、あまり手入れが行き届いているとは言えないから、20年分くらいが妥当と考えるべきではなかろうか。 そうすると、田吾作殿の木は、10,000円×20年分=20万円ということになる。」

 二人は智者の説明に心底感服して、20万円で取引をすることにした。

 ところが困ったことに、木を買うといった権兵衛には、手持ちの金がほとんどなかった。 そこに偶然、村の名士である銀之介(ぎんのすけ)が通りかかった。話の一部始終を聞いた銀之介は、 権兵衛に金を都合する約束をした。もちろん毎年、きっちりと返済をし、もし返済が滞れば、 栗の木は自分のものにするという条件である。

 ただ、銀之介が言うことには、「栗の実は普通の年であれば確かに1,000個実るだろうが、 以前、たいへんな長雨が降った年には、いつもの8割ほどしか実をつけなかったから、そのくらいで計算させて欲しい。 さらに権兵衛は、たいそう遊びが好きと聞くから、栗の実の売上を遊びに使ってしまい、自分への返済が滞ることだって 考えられる。そういう危険を考えると、1,000個×8割×10円×15年分=12万円までしか貸すことはできない。 あとは権兵衛の手持ちの金で何とかしてくれ。」ということだった。

 しかし権兵衛には、手持ちの金などほとんどない。田吾作が困っていると、 山むこうの町から来たという一人の男が現れ、次のようなことを言う。

 「私の町では、1本の栗の木を100人で持つことが流行っている。我々ならば、 銀之介とやらのような渋いことは言わない。具体的にいくらで買うかは、町に帰って相談しなくてはならないが、 おそらく田吾作殿の要望である20万円に近い値段で、買うことができると思う。」

 田吾作はその話に興味を持った。1本の木を100人で所有して、一体どうするのだろう。誰が肥料を与え、 誰が収穫をするのだろう。もし木を他に売りたくなったら、売れるのだろうか。

 山むこうの町から来たその男が言うには、栗の木の世話をし、収穫する人間を別に雇い、 100人の所有者は、それぞれ取れた栗の実を均等に分ける権利を持つのだという。 さらに面白いことには、所有者の誰もが、その権利を他人にいつでも売却することができるのだが、 取引所で競り売りにかけるから、その時々で売却代金は異なるらしい。 2,000円で権利を買った人間が、首尾よく2,200円で他に売ったこともあるし、泣く泣く1,700円で手放した者もある。

 山むこうの町では、栗の木の値段は、その100分の1に分割された"栗の実収受権"の値段と関連して決まっているという。 "栗の実収受権"を買おうという人間が、今後栗の実の値段が上がると思えば権利も高くなるし、 下がると思えば権利も安くなる。

 翌日、山むこうの町の男が再び来て、皆で相談した結果、17万円で購入したいと田吾作に申し出た。 すぐに買ってくれるのならと、田吾作はその値段で応じることにした。

 こうして田吾作の栗の木は、今や山むこうの町に住む100人の共同所有ということになった。 また同じようにして、別の村人が持っていた柿の木や蜜柑の木も売られ、共同所有になっていった。

 村にも"栗の実収受権"や"柿の実収受権"を売買する取引所が必要になった。そればかりか、 権利を売買する者たち全員が納得するように、毎年、栗の木や柿の木の"その年の値段"を知りたいという声が増えた。

 木の値段を決めるのは、村の智者の仕事である。智者は、最近取引された様々な木の値段、様々な木の実の人気の度合い、 予想される夏の気温など、多くの情報から木の値段を判断する。 しかし、それに対して、権利を持つ者たちが、次第に文句を言うようになった。 智者が判断した値段が、権利者たちには納得できないらしい。
「我々栗の実収受権者は、来年の栗の実の収穫量、その翌年の収穫量・・・、 そしてその時々の1個あたりの値段を予想して、権利の取引を行っている。このやり方は、町の常識である。 今や栗の木を1人で所有できるような者は、この村には少なくなったのだから、我々の見方こそ正しい。 我々の思うような栗の木の値段を付けられない智者など、智者ではない!」

 もちろん村の智者とて、権利者たちの言うことは重々承知している。だが、彼らの言い分は、彼らの立場だけから発せられたものである。 今は確かに村の田畑を耕す者は年をとり、 若者は遠くの町まで働きに行って、村の活力は失われているが、これから後継ぎが生まれてくるかもしれない。 栗の実の人気だって回復するかもしれない。それどころか、栗の木の値段は栗の実の売上17年分とか、 18年分とか、権利者たちが言っていること自体、それが本当に合理的だという根拠はない。 そもそも彼らの中でも、権利を買おうとする者は安く、売ろうとする者は高く言いたがる傾向がある。 同じ人間が、買う時と売る時で臆面もなく違うことを言う。 そんな者たちの意見だけを聞いていては、あまりに偏った見方になってしまうではないか。

 考えてみればそうだ。金を貸す者は、担保に取った物の値段を安く見積もりたいので、 栗の木の値段が栗の実の売上高の何倍に当たるかという倍率を低く見たいし、 "栗の実収受権"を買う者は、できるだけ安く買いたいので、もし栗の木の値段が決まっているとすると、 換算倍率を高く見たい。

 年によって、買い手市場になったり売り手市場になったりするから、その都度、 優位に立つ者が声を大きくする。しかし、声の大きな者の言いなりになっていると、道を誤る。

 そういえば昔、村にこんな事件があった。

 山むこうの町で栗の実の人気が上がっていて、これから村にどんどん買いにくるから、 栗の実が足りなくなる。こんな噂がまことしやかに囁かれ始めた。その途端、栗の木の値段が上がりだしたのだ。 田吾作のところにも、栗の木を200万円で売って欲しい、いや220万円で買う、というような申し出が、 ひっきりなしに来ていた。実がほとんど取れないような木にまで、高い値段がついた。 村の者で、実際、隣村の人間に200万円で売った者があった。

 それを買っていった隣村の者が、町に栗の実を売りに行くと、思ったほど売れないし、 売れる値段も高くはなかった。彼は借金をして栗の木を買ったのだが、当然返済できなくなり、 その木を売ろうと思った時には既に栗の木は50万円でしか売ることができないとわかった。 金を貸してくれた人間に、木を譲って借金を棒引きしてもらおうと思ったが、もはやそんな要求を 飲んでくれるはずもなかった。

 あの一番栗の木が高かった頃、高く買える者の声が一番大きく、高く買うことが正しいことであるかのような 風潮があった。今は反対に、買う者の数が少ないので、安くとも買ってくれる人間の言いなりになっているところがある。

 高く買い、値段をつり上げたこと自体が過ちだったのではない。声の大きな人間の言いなりになることが、 すなわち道を踏み外すことにつながったのだ。

 世間の者たちの言うことは、いつも近視眼的である。晴れの日もあれば、雨の日もあるという自然の摂理を見失った時、 人間は大きな痛手を被る。

 過ちをくりかえしてはならない。

2003年4月30日


(解説)デットの貸し手、エクイティの投資家がそれぞれの立場において意見を持つのは当然である。 そこから利回り論争が生まれてくるのもまた当然である。しかし、アセット全体を取り巻く環境について、適切な現状分析と、 将来予測とを、客観的な立場で、科学的なプロセスで行うことが最も肝要である。声の大きな者の言いなりになってはいけない。