No.20 「県民性」は本当にあるのか



 出身県によって性格に特徴があるという「県民性」に関する議論がある。

 これについて述べる前に、まず、類似の議論である血液型別性格判断について検討してみよう。

 血液型別性格判断について、「人間を4種類に分類すること自体がおかしい」という反論をよく耳にするが、 そのような発言は、基本的に統計学というものをわかっていない人のものである。問題は、4つに分類するのがおかしいかおかしくないか、 というところにあるのではない。4つの分類自体は恣意的なものではなく、ABO式の血液型は4種しかないので、 そこに着眼して性格を検討すると、それぞれに特徴があるのか、ないのかという分析をしているのに過ぎない。 意図的に人間を4種に分類しようなどという話ではない。

 この血液型別性格判断については、心理学者の世界でも、「単なる占いであって、科学的には説明できない」というのが定説らしい。

 しかし、血液型と性格との間の相関性を真剣に検討しようと思うのなら、例えば、数量化2類(※注1)の手法で性格データをもとに血液型の判別をし、各血液型グループ間の差の検定をしてみればよい。

 何かといえば仮説検定の好きな心理学者がそれをやっていないのは、 「血液型別に性格の違いはない」という帰無仮説が、実は棄却されてしまうことを恐れているのか、 実際に棄却されてしまったかのいずれかであろうことを伺わせる。なぜなら、もしそのようなことが実際に行われていて、仮説が棄却されなかった (つまり、人間はABO式の血液型別に、性格の違いはないということが検証された)としたなら、 心理学者たるものすぐさま大手を振って報告しているであろうと思われるからである。そのような研究報告がないのは、やはり怪しい。

 「そんなくだらないことには付き合ってられないのだ」という言い訳は、単なる言い逃れである。 血液型と性格の関連性を否定するなら、それを証明しなければならない。肯定している側は、曲がりなりにも統計を取った結果だと言っている (その統計の中身の詳細は定かではないが)。この点につき、反論できる実証データをお持ちの心理学者は、ぜひお教えいただきたい。

 だが、血液型別の性格特徴に統計的な有意差が認められるとしても、それらの間に因果関係があるということの証明にはならない。 だから、「こういう性格ならばこの血液型である可能性が高い」という言い方はできても、「あなたは何型だからこういう性格であるに違いない」という演繹的推論は慎むべきだ(※注2)。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」かを確かめるのは簡単だ。 風力を説明変数とし、その日の桶屋の売上を目的変数とする単回帰分析をして、仮説検定をしてみればよい。両者に関連性はないという帰無仮説が棄却されれば、 何らかの相関関係があるということになる。しかしそれが証明されても、両者の間に直接的な因果関係があるということにはならない。

 さて、本題の県民性の話に移るが、こちらも基本的には血液型別性格と同様に、仮説検定を試みることは可能である。 しかし、両者には決定的な違いがあり、少なくとも筆者は、血液型よりも県民性の議論のほうがより怪しいと思っている。それは、血液型が、親や本人が望んでもそれを変えることは出来ない生得的なものであるのに対し、 出生地やその後の生活環境は、親や本人の意思で、どうにでも変えられるものであるからだ。

同じ出身県の人間は、みな同じ性格だと言うのか! などという、血液型性格判断を批判する人がよく使う極めて幼稚な常套句を、 筆者はここで言うつもりはもちろんないが

 万人が生まれてから長い間一ヶ所に定住しているわけではない。 転居を繰り返した人の県民性はどうやって判定するのか。

 実際、筆者はこれまで14回も引越しをしている。自分の中で、故郷とか地元という意識自体がない。 だいたい、どこで生まれたとか、どこで育ったということなど、今の自分のアイデンティティに関係はないと思っている。 大切なのは個々人の生き方の選択であり、人生は自分で切り拓くものだ。たとえ地域社会の中で生きているとしても、キャラクターを決めるのは自分であり、 個人の生き方は守られなければならない。

 血液型の場合と同じように、出身地ごとの性格の相違の仮説検定を行おうとすれば、そもそも出身地とは何かという定義づけから行う必要がある。 実際、筆者がこの質問を受けたとき、ちょっと答えに窮する。生まれた場所を出身地とするなら一応定義はできる。しかし、育った環境が重要であるなら、 例えば10〜12歳くらいまで生活した場所などという定義づけが必要かと思われるが、そうすると、その間に何度も転居している筆者のような人間は困ってしまう。

 「出身地」などという発想自体、実に農耕民族的発想ではないか。実際、アメリカなどでいうbirthplaceは、文字通り、単に生まれた場所であり、日本でいう出身地のようなニュアンスはない。

 そう思いながら、『県民性の人間学』(祖父江孝男、新潮OH!文庫、2000年)という本を読んでみた。

 筆者のbirthplaceである神奈川県を見ると、 県民意識が弱い、地域的な帰属より個を大切にする、非常にドライ・・・などとある。実に私の性格そのものではないか!

 また、同書に実際に調査で行った次のような設問例がある。これを筆者の考え方と照らし合わせてみよう。


「お互いのことに深入りしないつきあいがよい」・・・私の答えはもちろんYes。

「神でも仏でも何か心のよりどころになるものがほしい」・・・断然No。自分の心は自分が規律するのだ。

「国や役所のやることには従っておいたほうがよい」・・・もちろんNo。役人は公僕なのであって、我々が使っているのだ。

「地元の面倒をよくみる政治家をもり立てたい」・・・No。そんな地域エゴでは発展はない。

「生活の心配がないとしても働きたい」・・・No。仕事は生活のためにあるのであって、生活が仕事のためにあるのではない。


 以上が筆者の答えだが、最初のYesの率は神奈川が全国で最高だそうで、残りの4つのNoの率もやっぱり全国一なんだそうである。 実にぴったり合ってしまった。

 なんだか悔しいが、県民性は当たっているのかも知れぬ。

 ちなみに、筆者が今まで居住し、関係してきた他の都府県について、同書で解説されている県民性に照らしてみると、次のようになった。

[静岡県]

 のんびり屋の常識人・・・筆者はNo。のんびりしてないし、常識にとらわれるのは嫌いだ。

 執着心がなく飽きっぽい・・・まったく正反対。

 発明家タイプのアイディア人間・・・どちらかといえばそれに近い。人と違う発想をするのが好きだ。

 真ん中、中庸、平均、無難・・・そのような凡庸であることは、最も忌み嫌う。

[東京都]

 下町は、義理人情を重んじ、きっぷが良くて勇み肌。・・・まったく正反対。

 山の手は合理主義、個人主義、時にエリート意識を伴う。・・・ほぼこれに近い。

[大阪府]

 合理主義、活動的、がめつい、いらち(せっかち)・・・概ねその通り。

 組織のもつタテ社会が苦手・・・ほぼYes。上下関係は一応立てるが、本当は実力勝負と思っている。

 恋愛には熱しやすく、冷めやすい・・・No。と言っておこう。

 男性は保守的、封建的・・・これは断然違う。

[兵庫県]

 初物食いのおっちょこちょい・・・新しいもの好きであることは間違いない(筆者の裏サイトをご存知の方は、よくお分かりと思う)が、 ただ初物というだけで飛びつくおっちょこちょいではない。

 センスがよい・・・自分ではある程度そのように思っている、というか指向しているのだが。


 以上を見ると、筆者は神奈川県にはぴったりシンクロし、静岡県にはあまり合致せず、東京山の手にはほぼ合致し、 大阪府と兵庫県には半分程度かそれ以上重なる。

 そして、筆者には何の関係もないが、福岡県の県民性を見てみた。すると・・・。

 郷土意識は強くなく、開放的。愛想は良いが、底意地が悪いところがある。博多人の誉め言葉は、実は悪口。 権威主義的なものの考え方には反発し、不満ははっきり言う。

 なんと筆者の特質に、すべてバッチリあてはまる。

 そうか、私は、一度も住んだことはないけれど、福岡県人だったのだ。

2001年5月12日


※注1:多変量解析のうち、説明データから結果を予測するいわゆる予測型手法は、 次のように分けられる。
手法目的変数説明変数
回帰分析量的変数量的変数
数量化1類量的変数質的変数
判別分析質的変数量的変数
数量化2類質的変数質的変数

 例えば、1日あたりのアルコール摂取量、γ-GOP数値等の量的変数から、その人が肝臓病であるか否かを判別したい時には「判別分析」が使われる。
 一方、「あなたは神経質なほうですか?(Yes/No)」「他人から明るい性格と言われますか?(Yes/No)」 などの質問をし、その答えによって血液型を予測しようとする場合に、「数量化2類」が使われる。
 もちろんこのような調査をする時には、被験者が「自分の血液型はこういう性格」というマインドコントロールを受けた上での回答である危険性があることを 忘れてはならない。

※注2:単なるコミュニケーション上の潤滑油としてこのような話題を楽しむのなら何をどう決めつけようがよい。 それなら反論者も、なにも目くじらを立てて批判するようなレベルの問題ではない。しかし、本格的に目くじらを立てて 学術的反論をしようというなら、このような統計学的な話になってくる。