No.11 土地はもう底値か



 ついに触れてはいけない話題、開けてはいけない禁断の扉を開けてしまった。

 最初にいきなり結論めいたことを言えば、地価がいつ底を打つかといった考え方自体を、我々はそろそろ改めた方がいいということだ。 全般的に下落している地価がどこかで底を打ち、反転上昇する。 そのような図式を期待しても、今後はそういった画一的なパターンでは地価は動かないだろうと筆者は考える。

 それでは今後の地価はどのように読んだらいいのだろうか。

 巷間言われている地価の二極化現象、あるいは多極化現象は、今後もっと加速してゆくだろう。それが筆者の一つの考え方である。

 大都市部の住宅地を中心に考えてみよう。

 昨今、住宅取得優遇税制、金利先高感などにより、稀に見るマンション供給ラッシュを迎えている。一部には、マンションはもう底値だという声すら聞かれる。 はたして本当にそうなのだろうか。

 欧米と比べ、わが国の住宅取得費が未だ格段に高いことは、疑いのないところである。年収倍率で言えば、5倍どころか、欧米レベルを目標とすれば、 3〜4倍程度に下がる必要がある。それも、できれば統計上の平均年収などではなく、住宅の一次取得に臨む年齢層における一般的な年収レベル、 仮に基準年収を500万円とすれば、その3〜4倍程度の1,500〜2,000万円内外で取得できることが望ましいだろう。このレベルを実現しようとすれば、 まだまだ住宅価格が高すぎることがわかる。

 もちろん、米国などに比べ、わが国の国土、しかも有効活用できる平地面積は極端に狭い。にもかかわらず、世界第2位のGDPを誇っているのだから、 平地面積1uあたりの生産性は極めて高い。生産性が高ければ、土地に還元される分、即ち地代(賃料)が高いのは当然の帰結であり、 元本たる地価は果実たる地代に規定されるのであるから、日本の地価が諸外国に比べ極めて高いことは正当化される。 そのようなことを前提に考えれば、欧米と同水準の住宅価格を実現することは事実上困難かも知れない。 しかし、日本が本当に、政府などの言う生活大国になるためには、住宅取得のために一生をかけるなどという馬鹿げた事態は改善されてしかるべきであろう。

 そのためには、大きく分けて二つの道が考えられる。

 一つは、住宅地価が収益性を適正に反映したレベルまで下落すること (高GDPを反映した土地の高生産性という話は、主として商・工業地に妥当することである。全用途の平均地価が欧米より高くてもいいが、住宅地が商業地等につられる合理的根拠はない)。 もう一つは、持家取得偏重主義から政府も国民も脱却し、公的賃貸住宅制度等を拡充して、持家比率を低下させることである。

 まず前者は、都市部について言えば、マンション用地は現在のレベルから半値まで下がるのは難しいかもしれないが、戸建用地については、3分の1から5分の1程度に下がってもいいのではないか (特に容積の取れない、賃貸需要のないいわばつぶしの利かない低層住宅地などは、最も安くてしかるべきものだろう。名声を博している高級住宅地は別としても)。 後者は、良質な賃貸住宅の供給促進という点も大切ではあるが、何よりも持家こそが最終目標で賃貸は仮住まいといった一般の意識を改革する必要があろう。 実のところ、これは当分の間ほとんど不可能ではないかと思われるのも事実である(※注1)。

※注1:「地価が下がった今こそ、いつまでも家賃を払い捨ててないで、持家を持とう。今が賃貸脱出のチャンスだ。」といった宣伝文句を見るたび、 筆者は深いため息を禁じえない。賃貸イコール貧乏。そこから脱却することが男子一生の大仕事である。といった価値観が浸透している限り、日本の住環境の未来は暗黒であろう。 これは筆者が当サイトで繰り返し力説している点である。もっとも、それのどこが悪いのかと思う人は、ウサギ小屋のために自分の命を粉にすればいい。それは全く自由である。

 上記のような現在ではおよそ非常識とも思える改革をなしえたならば、豊かな居住環境が手に入る。そのためには、現在の住宅地価は、まだ極めて高すぎる。

 もっとも、まだ住宅地価が高すぎるからと言って、適切な水準まで今後継続的に下落してゆくとは限らない。むしろ、途中で何度も底を打ったように見える状況が訪れよう。 そして、現在のような持家=庶民の夢という構図が崩壊しなかった場合には、一世代以上の長きにわたり、高止まるかもしれない。 いや、それどころか、「日本の土地は高くていい。」「住宅取得は夢なのだから、夢に見合う代償を払うためには、やはり一生をかけるべきだ。」といった考え方が国民のコンセンサスであるというのなら、 このまま高地価は維持されてゆくだろう。筆者の個人的感覚からすれば、それは非常に愚かなことなのであるが。

 一方、商業地について見れば、地価は、現在既に収益性を適正に反映した水準にまで下がっている所もあれば、依然として高すぎる所もある。適正水準まで下がったと思われる所については、 反転上昇も考えられる(もちろん従来のような上昇ではなく、経済成長に見合った上昇であり、他の資産に比べて相対的に有利となるような上昇は、一時的現象としては起こっても、恒久的現象とはなりえない)。 ただ、近時の東京都心の一部における活況が、すべて今後の発展期待を適切に反映した需要であるとは考えにくい点に注意が必要である。しかし、商業地は、住宅地と比べ、 事の流れはいたってビジネスライクであり、需要者、供給者ともに合理的な考え方が徹底されつつあるとみていいだろう。

 さて、実際のところ今後の地価が具体的にどのような経過をたどるのか。それは誰にもわからない。テーマにしておきながら、それではあまりにも無責任ではないかと言われそうだが、我々鑑定士は予想屋ではない。 経済学者が景気予測をはずしたからといって、また、心理学者が他人の心を読めなかったからといって非難するのはいかにも失当であり、学問の本質を知らない戯言である。経済を学べば学ぶほど予測は不可能なのだということがわかり、 心理学を学べば学ぶほど人の心は分からないという事実に気づく(※注2)。 予測をすることが、学問の目標ではない。それは、鑑定のような実践分野でも同じことである。事実を的確に分析、解釈し、正しい方向に誘導すること。またそれにより、結果として予測に資することが出来たとすれば、それは副産物と言うべきものであろう。 従って、我々が言うべきことは、「こうなるであろう」という当て推量ではなく、「こうなるべきだ」という適切な誘導に尽きる。

 無責任な将来予測は、予想屋あるいは占い師のすることである。彼らは自分の発言に対し、責任を取ったためしはないし、また取る必要もない。的確な予測を期待する方が間違いというものであろう。 的確な予測ができるのは、自ら未来を切り拓き、価値観を創造し、自己と他者をその方向に誘導できる者だけだ。

※注2:経済予測に関して 〜市場が効率的であるならば、過去から現在に至る経緯や情報をもとに将来の値を推定することは出来ず、将来の状況に関する最良の予測値は、現在値と同値になる。 これを、確率論ではマルチンゲール性という。従って、そのような状況下では、まさしく未来はだれにもわからない。
 心理学に関して 〜人の心を読んだり、占ったりすることが心理学の目的と勘違いしている人が多いが、それは極めて幼稚な誤解である。精神の病理や健康を科学的に分析することが心理学の主要な目的のひとつである。

2000年11月8日


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